夜が来て、だいぶ薬が抜けてきたせいか眠れそうになかった。少しいらいらしていた。看護師さんに相談したら睡眠薬が処方されることになった。
薬が抜けきっていないからか、ベッドのカーテンの影が立体的なカバに見えてそれを眺めていた。カーテンも風がないのにずっと揺れているように見えた。
睡眠薬を飲んだが眠れず、看護師さんに眠れないのでiphoneを使いたいと言ったら意外にも許可が降りた。久しぶりに電源を入れてすぱんくんにLINEした。
そのうち、ばあちゃんが入院する病院から着信が入った。夜中の0時ちょっと過ぎだった。そんな時間に連絡が入るなんてよい知らせなわけがなくて、看護師さんに連絡を取りたいと言ったら、ロビーでなら通話していいと許可が降りた。ロビーでばあちゃんの病院に電話した。看護師さんとつながって、ばあちゃんが亡くなったことが告げられた。
看護師さんに今入院していていつ退院できるかまだわからないことを伝えて、退院が決まったら連絡をくださいと言われた。
すぱんくんにばあちゃんが亡くなったことを伝えて、いっしょに来てほしいとお願いしたら、来てくれると言ってくれた。
そのあと一睡もできなくて、退院のことだけ考えていた。看護師さんが来るたびに退院したいことと、主治医がいつ来るか聞いていた。決定権がない看護師さんの返答に逆ギレしたりして非常に申し訳なかった。
 
朝、ばあちゃんの病院のソーシャルワーカーのKさんから着信があって話した。葬儀の予算の関係で、お通夜は明日までなら待てるとのこと。「智子さんは今そんな状態だから無理しなくていいんだよ」と言われた。わたしは「行きます」と答えた。
どうしても最後にばあちゃんの肉体に会いたかった。

昼過ぎ、主治医ではない医師が何人か回診に来て、心電図の結果がよければ、退院していいと言われた。緊張しながら心電図の検査をして、退院が決まった。夜すぱんくんが迎えにきてくれてスーパーですいかを買って冷やして食べた。飛行機もLCCが取れた。札幌の劇団でいっしょだったちっちが泊まらせてくれることになった。すぱんくんの部屋の壁から文字が浮き上がっているように見えて、これがずっと続いたらやだなあと思った。


札幌はすずしかった。いや少し寒かった。空港に着いて、安い高速バスに乗ったら、時間がかかりすぎてお通夜の時間ぎりぎりにばあちゃんの病院に着いた。ソーシャルワーカーのKさんは「おそい!」と言って、これからの流れを説明してくれた。
本来わたしがやるべきことをすべて彼女が手配してくれた。
 
タクシーに乗って、ばあちゃんがいるお寺に向かった。タクシーを降りたら車椅子のママがいて「ともちゃん」と笑顔を見せた。急いで喪服に着替えて、ばあちゃんがいる部屋に向かった。わたしはばあちゃんを見た瞬間泣くと思ったけど泣かなかった。ねむってるみたいだった。ママは「小さくなっちゃって」と「働き者で」と何度か言っては泣いた。
おくりびとの人が「おだやかな顔をしてらっしゃいますね」と言った。「そうじゃない人もいるんですか」と聞いたら、死に方によって表情がちがうといったようなことを教えてくれた。おくりびとの人がお化粧のとき、シミにコンシーラーを塗った。「コンシーラーだ」と言ったら、「気にされると思って」と言った。
ばあちゃんがいつも気にしていたうすい眉毛もちゃんと描かれて、チークもふんわりのせられて、口紅をひくとき「もし似合わなかったら、塗りなおしますのでおっしゃってください」と言われた。お化粧をしたばあちゃんは元気なころの顔に近くて、3月にお見舞いに行ったときとぜんぜんちがった。そして3月に生きているばあちゃんに会えたからこそ、今こうしておだやかな気持ちでいられるんだと思った。
ばあちゃんの荷物を棺に入れるものとお炊き上げするものに分けることになった。その中に誕生日と敬老の日とたまに母の日にも贈ってた花のメッセージカードがたくさん出てきた。自分でやってたことなのに、それを見たら涙が出てきた。少し泣いた。
棺にそのメッセージカードやわたしもママも持っているねこのぬいぐるみやメガネや昔飼っていたみみにゃんの写真を入れて、写真を撮らせてもらった。
お通夜が終わって、札幌ならでは?のカラオケボックスの中で食べる居酒屋のようなところでごはんを食べた。ムーンライダーズの「悲しいしらせ」を歌った。ごはんを食べ終わってちっちの家に向かった。ちっちは仕事が忙しい時期なのに泊まらせてくれた。起きたら朝ごはんがつくってあった。
区役所で納骨に必要な書類を取り寄せて、昨日のお寺に向かった。棺にお花を入れた。また写真を撮らせてもらった。いい写真が撮れた。

火葬場に着いて、ばあちゃんが焼かれるところに入れられた。わたしはここでも泣くと思っていたけど泣かなかった。ソファで待っている間、そばとうどんの店があって、ママとすぱんくんと3人で出前して食べた。付き添いの看護師さんは「わたしたちはだいじょうぶです」と言った。ママは病院食以外のものを食べるのが久しぶりだから無言で必死で食べてかわいくてみんなで笑った。お散歩したいというので親子ふたりでと看護師さんに言われ、外に行こうとしたら、骨を拾うところを通らなければ外に行けず、なんだか申し訳ない気がしてすぐ戻ってきた。ママは庭を見て、外に出たいというので、けれど庭はがたがたしてるので、看護師さんの車椅子さばきで庭に出た。わたしは車椅子を押すのがほんとうに苦手でそのたびに、本気でママと関わってない感じがする。
ママは何度か「わたしは死にました」と言った。母親が死ぬということをママなりに考えて言っているんだと思ったし、わたしに似ていると思った。
ばあちゃんが骨になって拾うことになった。喪主の方からと言われ、ママが前に出た。そう、ママはお通夜もお葬式もちゃんと出られて、一時期は字も書けないくらいだったのに、元気になったし、ママなりにがんばったのだと思った。

納骨を済ませ、デパートに向かった。ばあちゃんの病院のソーシャルワーカーのKさんと主治医と看護師さんにお菓子を買った。
Kさんと話して、「ほんとうにお世話になりました」と挨拶したら、ほっぺを触られて、抱きしめられた。
Kさんにはほんとうにお世話になった。こんなに親切にしてくれるワーカーさんはいないと思う。ママはいるけど、病気だから、ママみたいなことをKさんはたくさんしてくれた。最初は叱られたりしてこわかったけど、それはわたしにしっかりしなさいと、これから起こることを考えてのことだった。けどばあちゃんが死んだから、Kさんとはもうお別れですごいさびしい、わたしこれから、だいじょうぶかな、と思ってたら、「遊びに来てね」と言ってくれた。
ばあちゃんの主治医とも話した。ばあちゃんは機械に出ないくらい、ねむるようにしずかに亡くなったと教えてもらった。おなかにあった動脈瘤が破裂することなく、いわゆる老衰だろうと言われた。
「おばあちゃんはよく、『ともちゃん』『ともちゃん』って言ってたんですよ」
「智子さんがそういう状態のときに亡くなったということは何か伝えたかったということだから、生きてください」
と言ってくださった。

ナースステーションで挨拶した。かつてお見舞いにきたときにお花のメッセージカードのことやばあちゃんがわたしの名前を呼んでくれてたことで、部屋が何号室か聞いたとき「ああ、ともちゃんだあ」「ともちゃん」「ともちゃん」と初対面の看護師さん数名に名前を呼ばれたことを思い出した。
 
病院を出て、ずっとそばにいてくれたすぱんくんとなんとなく笑った。

すぱんくんは「ともちゃんはいろんな人に見守られてるんやで」と言った。 


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さいごに

そのころの医療がたぶんまだ発達していなくてばあちゃんの認知症の初期症状は放置された。その症状にはわたしを疑う妄想も含まれていて、たいへんな思いをした。それでしばらくばあちゃんをきらいになった時期もあった。けど、ばあちゃんの顔はそれを忘れさせてくれるくらいおだやか、というか、それが、死なんだと思った。ばあちゃんの人生はわたしを疑ってばかりいる人生じゃなくて、わたしにワンピースをつくってくれたり手袋を編んでくれたり、新さっぽろでラーメン食べたり、土曜日によしもと新喜劇を見ながらじゃがいもいっぱい茹でてくれたり、完全看護になる前の「付き添い」という仕事を定年までしたり、あとわたしが知らないたくさんのばあちゃんの人生があった。
わたしは、ひとりで東京出て来ちゃってって時々思ってたけど、まだごはんがふつうに食べられたばあちゃんに病院の近くのおいしいおにぎりやさんのおにぎり買ってっていっしょに食べたり、まだ喫煙室があるころで、喫煙室の中でふたりでしゃべったり、ジュース買ってもらったりした。
できることはしたんだと、思うことにした。

長くてすみません。読んでくださった方いたら、ありがとうございました。